蒼氷の壁 最終章

第終章

1月5日
悪い予想が当り風と雪の勢いが止まない。表に出るとさえぎるもののない稜線はまったく視界ゼロに近い。すぐに停滞とする。
入り口を雪で塞ぎ戻ると坂本が私を呼んだ。
「長谷川、足も手も指の感覚が無い」
「え! いつからだ」
「昨日の第一リッジで風に吹かれてからかも知れん」
「もっと先に言ってほしかった」
すぐにつま先、指先を見てみると合わせて六本ほど白く変色していた。
急速な加熱はご法度と聞いていたので保温に徹するが状況は極めて悪化してきた。しかし救助をすぐには当然呼べない。札幌に残っている会員たちも下山連絡が入らず、遅れる旨の連絡も入らないので救助体制を取って待機しているに違いない。
携帯電話のバッテリーにもっと気を使っておけばよかったのだが、今更である。坂本の意識は混濁しており、呼べば僅かに返事はあるので、急変しないとことを願いつつ気持ちは焦る。

朝から晩までやることもなく、ただうとうとしているために夜が更けても寝ることができない。
今の窮地に追い込まれたのは、ザックを落としたことに最大の原因があるにしても、それだけではない。それまでにいたる小さな瑕疵の積み重ねだろうか?決定的なものはなかったはずだと考えてしまう。
それは自分に都合よく考えるからに違いないし、自覚はないが、私自身もだいぶ弱っているのだろう。
ピンと張ったラインであるがゆえに、わずかな亀裂で切れてしまう。
そんな危うい立場をともすれば忘れがちになっていた。
時計を見ても過ぎていく時間は遅々として進まない。
気がつくといつのまにか朝になっていた。

1月6日
朝起きても今日も天候に変化はなく再び停滞とする。
相変わらず風が強く動きは取れない。予備日であるため救助の動きはないだろうが停滞の連絡の入らない状態は普通ではない。
雪洞の中は薄暗く、入り口だけがわずかに青白い。
私がふり向くと坂本が目を覚ました。
「なあ長谷川、俺は死ぬのかな」
「死ぬわけ無いだろう」
「俺は死ぬのは怖くないんだ」
「いいから黙っていろ」
「五年前、母親がALS病で亡くなった。最初に手の震えが来て手足が不自由になり、そして転ぶようになり寝たきり、病院で亡くなった。」
「それは大変だったな」

「身体中が痛くて苦しんでいた。痰を自力で飲み込めないため、看護師が吸引する。見舞いに行ったおれも当然していた。自力でできることは目を動かすだけになっていた。ある日見舞いに行くと目で俺を呼ぶ『なんだい母さん』『もう死にたい、殺してくれ』と、まさかそうだねとは言える訳がない。
死んだほうが楽になると言っている母親はまだ50代だから頭は正気さ。入院していた病院は神経内科なのでALSなどの患者が多く、とても視線を上げて廊下を歩けなかった。一月前に歩けた人が次に訪れたときには車椅子となって、そして寝たきりになっていくんだ。
地獄はこの世にもある事を俺はその時初めて知った。
見舞いを終わって病院を一歩出たら、ホッとしている自分に気がつき、嫌悪したんだ」
「もういい、喋るな」
「いまは寒いが苦しくは無い。だから死ぬのは怖くないんだ。人の死は生物学的なものではなく、その人を覚えている者が存在しなくなって初めて死ぬんだ。だから、せめてお前が俺を覚えていてくれ」
「助けを呼んで来るし、坂本が死ぬことは無い。必ずだ」
「ありがとう。忘れないでくれ」

坂本の意識は再び混濁し、自力での回復は難しい。
明日も予備日だが、これ以上待つことは坂本の体調を見る限りできないだろう。明日、少しでも天候が回復したら朝一番で救助要請をするために、北稜を下山することにした。 
ここに留まっていつ来るかわからない救助隊をおとなしく待つのが良いのか、それとも少しでも早く降りて救助隊と合流し、坂本の収容を早めたほうが良いのかよく分からない。
それでも答えは決まっている。待ち続けることにより、仲間を見殺しにすることなど、到底出来ない。
世間から無謀な行為と呼ばれるかもしれないが、一人で下山をして救助を求める方法しかないのだ。
それが結果的にうまくいくかはわからない。しかし、あきらめたくない。たとえ間違った判断だったと言われようと可能性を信じる。
雪洞を出てから四時間歩き続け、ようやく北稜に達した。白み始めた空は明るさを増し、晴れの一日を約束してくれているように感じたのだが体が動かない。連日の疲れからこれ以上歩くことが難しくなり座り込んでしまう。 
           
突然稜線の先に多くの人影が現れた。救助隊だ。ようやく時間切れで、連絡の取れない我々を捜索しに来てくれた。登攀は成功したが、自力で下山できないうえ、一人が衰弱してしまった事実は認めなければならない。
計画は失敗したのだ。詳細な調査、充分な装備、積み重ねたトレーニングなどで自分たちに生まれた過信なのか、思い上がりなのか、多分その両方なのだろう。いずれにしても生きて帰らねば成功も失敗も語れない。
救助隊が到着しても時間との闘いは終わらない。
しかし、いくら待っても彼らの姿が大きくならないことに気がついた。こちらに向かっているはずだが、次第に進行方向が右へとそれた。
「俺たちはここだ! こっちへ来てくれ!」
声を出して位置を知らせようとしても、かすれた小さな声しか出ず叫びにはならない。
どうしてこちらに来てくれないんだ。
 

奇妙なことに気がついた。
まだ薄暗いとはいえ天候は晴れており、風も弱い。
真っ先に救助ヘリが飛んでくるはずなのだが、姿もローターの回転音も聞こえてこないのはなぜなのだろう?
いつの間にか雪面には誰もいない。

ふと自分が漆黒の闇にいることに気がついた。
ここはどこだ、救助隊はどこに行ったんだ?
振り向くと目の前がわずかに青白く光っている。
自分が救助を求め雪洞を出たこと自体が夢だったのかもしれない。
すでに坂本の様子もわからない。
完璧なる静寂が雪洞を覆っており、私にも時間が残されていないことを悟った。

『ややもせば 消えをあらそふ露の世に
             遅れ先だつほど経ずもがな』

妻が教えてくれた歌が浮かんだ。
戻るとの約束は守りたい。
私たちは永遠を横切ることが出来るのだろうか。
                         完

本書において全編に実在のルート名が出てきますが、雰囲気は感じられるにしても、内容においてはすべてフィクションです。

参考文献
『会報 第2号』
            室蘭ロッククライミングクラブ 昭和48年
『岩と雪 60号』
            山と渓谷社 1978年
『会報 第3号』
            室蘭ロッククライミングクラブ 1978年
『会報 第4号』
            室蘭ロッククライミングクラブ 1995年
『岳人 761号』
            東京新聞 平成22年
『黒百合 N0、619』
            札幌北稜クラブ 2019年
『北海道登山研究集会報告集』
            北海道勤労者山岳連盟 2019年